河北派形意拳

・形意拳概要

 形意拳というのは中国伝統武術の一派であります。八卦掌、太極拳と併せて「内家拳」と呼ばれとても有名です。形意拳は中国武術という宝庫の中の一つで、世界中に幅広く愛好家がいます。

 形意拳というのは一般的に河北の「李洛能」という方が作った流派をさし、現代まで代々受け継がれ、内容はとても豊富になっています。樁法(一定時間同じ姿勢を続ける鍛錬)には三体式、無極式、渾元樁など。套路(型)には五行拳、即ち金の劈拳・水の鑽拳・木の崩拳・火の炮拳・土の横拳が根底にあり、そこから十二形、即ち龍形・虎形・猴形・馬形・鼉形・鶏形・鷂形・燕形・蛇形・駘形・鷹形・熊形があります。他にも五行連環拳、八式拳、鶏形四把拳、十二肱捶、出洞入洞、雑式捶などなど。器械(武器術)には五行刀、五行剣、五行槍、五行棍、連環刀、連環剣、連環槍、連環棍、三合刀、三才剣、龍形剣などなど。

・形意名手

姫際可

 姫際可、字を龍峰。約1602年ー1680年。明の万暦30年から清の康熙帝の時代にかけて活躍したとされています。姫氏族譜によると、姫氏の祖先は山西省洪洞の出身で、明代初期に山西省浦城に移り住んだとされています。 乾隆43年に戴龍邦が改版した『心意六合拳』には、姫際可の文章が掲載されており、姫際可が『心意六合拳』を作る重要な基礎となっています。

  原文を要約すると、「私は姫際可、字は龍峰、祖先は浦東諸馮里(山西省浦州尊村、現在は山西省永吉県の一部)に住み、若い頃から詩や本に親しみ、祖先を敬いたいが、幼い頃から詩を学び、先祖を敬いたいと願っていたが、万里の昔から恣意的な徴兵と暴力にさらされた。

 13歳のとき、家業がだんだん零細になってきたので、父が武術を習わせるために先生を頼んだ。10年近く武術を学ぶために嵩山で学び、 特に龍壇大槍の秘術が得意だった。 困ったときは武器を扱い、自衛のために槍を持っていることはできるが、大平の日に剣や兵が待ち伏せされたら、不測の事態にどうやって身を守るか、それで南方へ有名な武術家たちを訪ねて回った。 西湖に行き、峨眉山に行き、漢中に行き、秦嶺山脈に行き、そして終南へ行った。 地元に帰れないし、人生に興味がないが、世を捨てようという気にもならなかった。そこで、山を越えて古代の洞窟を探検し、玉柱峰の下に崩れた古寺を見つけ、終南を我が家とすることにした。

  廟の壁が脆かったので、風雪に備え、東殿を一人で修理することになった。 深夜、野生動物の鳴き声に起こされ、なかなか寝付けないこともしばしばだった。それで獣を剣で追い回して帰ってきたら、西殿が月で明るく輝いていたので、割れた窓から射し込んだのではないかと疑い、よく見るとさらに怪しく、好奇心に動かされて燃料松を照らすと、埃に埋もれた剣を見つけた。剣は木箱に入れられており鞘は上品な形で、剣は明るく鋭く、『湯阴岳氏』の四文字が埋め込まれていたが、剣の名前はなかったので、剣は知らないが、人は知っていた。 再び木箱を開けると本があり、『六合拳経』とあった。その本の中には五行の原理、陰陽の枢要な仕組み、起落進退動静虚実の奥妙が記されており、武術の精髄を集めた一冊であった。

 大変感激し十年の苦心の末に、一冊の本でその原理を学び、あらゆる形に通じるものを学ぶことができた。六合を法とし、五行十形を拳とし、心が意を引き起こし、拳を意の所に向かわせることから、名を心意六合拳とした。岳飛の本の意向を裏切ることになるのではと心配になり、後世に伝えようと決意し、南方を離れて東方に渡り、有名な師匠を訪ねて後継者を探したが、この拳が世に出ると、人々はこれを軽視して、この拳に暴力から身を守る術と体を養う術があることを知るよしもなかった。 心意を中とし、肢を外として、先天の本を含み、性命生死の道、陰陽の母、四象の根、陰陽の創造をつかみ、乾坤の気を逆転させるためのかなめその後曹公に会い、その子である継武に託され、十二年で大成した。」とあります。

また一説には姫龍峰は終南山中の洞窟で鷹と熊が戦うのを見て、それに感悟され拳に取り入れたというはなしもあります。これらは岳武穆拳経の一節であり本当かもしれませんし、はたまた擬似的な話かもしれません。しかし、上記の記録が間違いなければ姫際可が(形意拳)の形式を作ったとするのが妥当であると考えられます。

曹継武

 曹瑋、字を継武、約1662年―1722年、清の康熙帝の時代に生きた人物です。12歳の時に姫際可から心意六合拳を伝えられ、12年の歳月を経て大成した。曹継武は康熙癸酉年(1693年)科挙の三元を取得し、康熙40年(1704年)に陝西省靖遠県の福証に任命され、康熙45年には興安の武官に任命される。晩年は引退し現在の地州に隠居し武芸を伝え、後世に『意拳十法摘要』を著し、弟子には後に山西で栄えた戴龍邦、河南で栄えた馬学礼の二人が有名です。

 曹継武の『十法摘要』の結びの章で「姫師から真伝を受けたのは鄭師一人である。鄭師の拳、槍、剣、棍などすべてを修め、姫先生の理論を理解している鄭志だけである。これは、すべての武芸が拳の中から生まれていることを知っているためである。しかし、世の心意六合拳を学ぶ人々のその術は異なっている。真伝を授かっておらず、少しの差が千里の差になり別物となっている。私は幸いなことに私は鄭師の門であり、姫老の伝人である。師姫の伝授を受けるために、鄭智の弟子から学ぶことがでた。したがって、その方法はかなり洗練されたものであり、私はそれを手に入れたのである。十法摘要の内容をあえて世に問うわけではないが、智識の伝統を守り、また後進のために役立てるつもりである。」とこの一説にあります。これは姫際可と曹継武との間に鄭師というもう一代伝人がいたことを示しています。鄭師の資料は載っていませんが、馬琳璋の著書『心意拳真諦』参考までに次のような記述があります。

 「鄭師は姫際可が終南山中で出会った道士で、寺で座って話していると、道士が『今は太平の世ではないが、太平の世になれば南山に馬を放ち、刀槍を藏にしまうだろう。但先生がそれでも街中で大槍を持って歩くのは人目についてしまい、それが原因で厄介ごとを招かないだろうか』。姫際可は『師から授かったものをどうして置いていけようものか』と答えたところ道士は『なぜ捶(拳)にかえないのだ!』と言われ姫師は悟った。それ以来、槍の使い方を捶に変え、六合大槍の原理と架勢(構え)とを合わせ六合捶を作り出した。姫際可は終南山で拳を創って以降、道士に見せ、それを見た道士は気に入り姫際可に自分も習いたいと申し出て、姫師は道士にこの拳を教えた。そして彼は六合拳を一派とし終南派、またの名を『忠派』としたのである。この忠というのは明に忠誠を誓う『反清复明』の考えのもと、一派は拳術の創始者に敬意を表し、心意六合拳の始祖である姫際可に尊敬するとした。そして道士は謙虚に姫際可から六合拳を学び、後に鄭老師と呼ばれるようになった」とあります。

 武術の歴史は口伝や手書きの文章で伝えられることがほとんどで、多くの武術家の自尊心や保守性、本格的な検証の不足から、その本質を見極めることは困難でありました。 形意拳の歴史もこの問題に悩まされています。

 例えば、古い系図では、姫際可が戴龍邦と馬学礼に、戴龍邦が李洛能に継承されることを直系として扱うものが多いですが、実際には生没年を分析するだけでも誤りがあることがわかります。 現代の『中国武術大辞典』によると、姫際可は1602年から1680年、戴龍邦は1713年から1802年、馬学礼は1715年から1790年、李洛能は1808年から1890年の間に生まれ没したとされています。このことから、戴龍邦や馬学礼が直接姫際可から学ぶことはできず、李洛能が姫際可から学ぶこともできなかったことがわかります。

 なぜなら姫際可は彼らの誕生より何年も前に亡くなっているからです。 弟子と師匠が同時期に存在しなかったことを、これまでの武術史研究の見落とし、欠陥として片付けることはできません。ですから、初期の心意拳(形意拳)の系統は、姫龍峰―鄭師―曹継武―戴龍邦、馬学礼で、後に山西と河南に分かれたというのが妥当なところだと考えています。

戴龍邦

 戴龍邦、字を尔雷、生没年は約1714年―1802年、一説には約1720年―1809年、康熙帝の時代から嘉慶帝の時代にかけて生きた人物です。山西省祁県小韓村の村人で、幼いころから武術を好み、家伝の武術も継ぎ、池州の曹継武から心意六合拳を授かり、十年間苦練の末大成し、晋へ帰郷しました。乾隆十五年(1750年)に河南洛陽を通っていた際に、同門の馬学礼に遭遇し、馬学礼の書斎で『心意六合拳・序』を執筆しました。

 一説には戴龍邦は李貞と螳螂拳師の金世魁らからも指導を受けたと言われており、手書きの拳譜にそれは記載されています。ただし戴氏の心意拳には螳螂拳の要素も混ざっており、それは閘勢捶または『螳螂閘勢』とも呼ばれており、それぞれ5趟(套路)あります。また螳螂刀などの器械もあり、現在の形意拳の中にも螳螂拳の技術要素が残っています。例えば雑式捶の中にある風擺荷叶は六合螳螂拳の中の敗歩封、連環拳の進退三崩拳の二つ目の崩拳はもともと退歩横拳で、これは螳螂拳の照面灯と退歩圏捶の姿勢や用法と非常に似ています。勿論これらは推断に過ぎませんが、戴氏心意拳の七小形の中に螳螂形というのは存在します。金世魁とその系譜に関する情報は現在にはなく、これからさらに検証・研究していく必要があります。

 戴氏心意拳は河南で心意拳を広めた馬学礼のものとも違い、また形意拳とも違います。戴氏心意拳の樁法は三体式ではなく、毛猴またの名を『蹲猴勢』といい丹田を斜めに上げ丹田を養います。身法は鶏脚、龍身、熊腰、鷹膀、猴背、虎豹頭が規矩であり、歩法には寸步、虎步、垫步、鶏步、長三步、践步、閃步、退步等々あります。その拳法の内容としては劈崩鑽砲横の五行拳に龍虎蛇猴馬鷹鷂燕鶏熊の十大形があり、戴龍邦の主要な伝人としては息子の戴文亮、甥の戴文雄、娘の戴文英及び郭維漢らがいます。また戴文雄が教えた戴龍邦の再伝弟子には戴良棟、李洛能と子の忠明、忠挙らがいます。なお李洛能は後に戴氏心意拳の基礎から形意拳を確立させます。戴良棟は戴奎とその甥の戴宏勳らに伝え、戴奎は岳蘊憲、馬二中、王歩昌、王映海らに伝えました。その後、伝人がそれぞれ別の弟子を持ち、現在までに約七代にわたり山西省の戴龍邦から伝わった戴氏心意拳は継承されています。

馬学礼

 馬学礼、生没年は約1715年から1790年、康熙帝の時代から乾隆帝の時代にかけて生きた人物。回族で河南省洛陽馬坡村の人でした。

 古い系譜には馬学礼が姫際可から伝えられたという説がありますが、二人の生没年から考えるに、姫際可が世を去ったのが1680年であると仮定するなら馬学礼が生まれる三十年以上前に世を去っており、馬学礼が姫際可から学んだとは考えにくいです。他の説としては鄭師から学んだとする説や、曹継武から学んだとする説もあります。ただし曹継武が世を去ったのを1722年だと仮定し、馬学礼が1715年に生まれたと仮定すると、非現実的ですが生まれてからつきっきりで習ったとしても7年間しかないというのがわかります。これらの疑問は歴史の一部となり、後に検証されることでしょう。

 しかし、姫際可、戴龍邦、馬学礼らは心意六合拳の発展において重要かつ象徴的な人物であり、その功績が没することはないでしょう。

李洛能

 李飛羽、字を洛能、また能然、老能、老農とも呼ばれていました。生没年は約1808年―1890年とされ、清朝の嘉慶帝の時代から、光緒帝の時代に生きた人物。河北深県窦王庄の人で、幼少の頃から武術を練習し、山西祁県に戴氏が心意六合拳に長けていると聞き、野菜栽培をするという名目で派遣され、約1845年に帯技投師をし、戴文雄に拝師し戴家の心意六合拳を何だが当時李は37歳で、戴家で10年間の厳しい練習を経て大成しました。拳の道において至らぬところはなく、他人とより心の欲する所を妨げられず、尋常にあらず、神妙且つ予測不可能で、すでに究極の境地に達し、見たり聞いたりせずとも知覚し、当時の人々は「神拳李洛能」と呼んでいました。1856年李洛能は心意六合拳を基礎に大胆な革新を行いました。心意六合拳の基礎を発展・拡大させ基本的な站樁法として三体式を、基本的な拳法として劈崩鑽炮横の五行拳を、十形に駘と鼉を増やした十二形を作り出しました。

 李洛能が拳を学び創出したことに関して言えば、外せないのがその師である戴家の伝人戴文雄です。昔の拳譜の中には戴龍邦が李洛能に直接技を伝えたと書かれていることがほとんどですが、李洛能は1803年に生まれなのに対し、戴龍邦は1802年にすでに亡くなっているので李洛能は戴龍邦から直接技を学べません。現代の考証と資料によると、李洛能は戴家心意六合拳の戴龍邦の甥の戴文雄から伝わったと考えるのが妥当だとされています。

 戴文雄、小字を二閭、生没年は約1778年―1873年、真の乾隆帝の時代から同治帝の時代にかけて生きた人物。戴龍邦の弟である戴麟邦の二児。戴氏の「拳を外に伝えてはならない」という家訓を初めて破り、戴家の心意六合拳を李洛能に伝え、これにより戴家の心意六合拳は形式を変化させ形意拳になったのであり、戴文雄こそが心意拳を外に伝えた重要な人物、まさに功労者であるといえましょう。

 李洛能の師伝はその大弟子の「毅斎記念碑」の碑文中にも確認されている。この碑は民国14年7月(1925年)に孫培基が文を作り、武中洲が書き常贊春が写し、車毅斎の弟子である李复貞、王風才、白光普、李発春、刘倹、布学寛ら他15人とその孫弟子50人以上、及び子の兆杰、兆烈、兆俊と孫の輝六らが記念碑を立て、碑中にこのように写しました。「拳術とは中国の絶技であり、少林・内家・外家の区別がある、吾の県では自咸年からこの術は独盛し、李洛能老師は曰く王長楽の弟子、曰く戴文雄の弟子である。戴氏は小字二閭つまり祁県の人で、戴氏の先祖は心意拳を伝えており、それは少林寺の外に伝わった一派を一家で受け継いでいたが、それを家の外の者であった李洛能先生は受け継いだ。李先生は丈孟勁先生の来賓で来ており、それにより車毅斎は拝師を受けることになった…」とあります。これは吴殿科著書の『形意拳大前』の中の記述にある「光道29年(1849年)李洛は太谷の裕福な紳士の孟勁如に招かれ、太谷城内で護院したところ、孟の推薦があり戴文雄の同意のもと車毅斎を弟子にした。李洛能が車毅斎に拳を伝えていたと同時に、車毅斎は孟にも伝えていたので孟勁如が李洛能を来賓として待遇した」という記述と歴史と一致しています。

 李洛能は帰京後、当時の太極拳の名手である楊露禅、八卦掌の名手である董海川とともに京の三大名拳の主導的な人物として数えられます。李洛能の弟子には山西の車毅斎、宋世栄、宋世徳、李广享らと河北の劉奇蘭、郭雲深、張樹徳、賀運亭、劉曉蘭、白西園、李鏡斎と子の李大和らが著名です。その後それぞれの弟子に広く伝え、多く英才を育成したことにより中国全土で形意拳は迅速に発展していき、その多くが名人となり、武術の発展において大きな足跡を残しました。ですので、勿論形意拳を創始したのは李洛能といわれていますが、実際に発展させ完成させたのは李洛能の弟子たちであり、彼らが拳の練習と研究を重ねった結果であり、このような彼らの実戦と研究の結果は私たちが「形意拳」を研究・探求する上で、無尽蔵の歴史的資料の宝庫となっています。

車毅斎

 車永宏、字を毅斎、生没年は1833年―1914年とされ清代の道光帝の時代から民国の初期にかけて活躍しました。山西省太谷県桃園堡で生まれ後に賈家堡に移り住みましたが、幼少の頃は家が貧しかったために学校に通えず、裕福な家の車夫として働いていました。その後李洛能に拝師し形意拳を学び、李洛能が山西で教えていた初期の有名な弟子になりました。その拳技は飛びぬけており、炉火純青(完璧な状態)に達していたとされています。

 李洛能が河北省に戻った時、車毅斎を戴文雄に託して学習を続けさせました。戴文雄は生前に乾隆43年に戴龍邦が作成した『心意六合拳』を重訂したものを車毅斎に与えたため、車毅斎は戴氏心意六合拳の真伝を受けました。故に現在の車氏形意拳は形意拳の風格を保持しつつまた戴家拳の特徴を持ち、内容も充実しています。伝承によれば李洛能が河北省に帰った時、伝えられたのは僅かに五行拳、五行連環拳と十二形の半数しかなく、後に河北派形意拳の名家は残りの十二形を学ぶために山西省に赴き続け、車毅斎と深く議論し研究しました。

 李洛能はかつて同じく形意拳の巨匠である郭雲深に「あなたは名声を得ましたが、あなたの二番目の師兄である車師兄と比べるとまだまだ及びません。」と言ったところ、郭は心中不服に思い、師兄と技を比べたいと願いましたが、李は「私が生きている間には行ってはならない。」と言いました。そのため、李洛能が世を去ってから山西に赴き、師兄の車毅斎を探し武芸を比較したという事実があります。郭は納得し車師兄と共に形意拳を研究し、後に功夫はより一層成長し、一代形意拳大師と成りました。郭の後には李太和、李存義、郭殿琛、王俊臣、王福元、孫禄堂などが山西省を訪れています。車毅斎の武功は卓越しており、武術の腕前と高い道徳心を持ち、やがて山西派形意拳の一代宗師と成りました。車毅斎の有名な弟子には、李复貞、樊永慶、李発春、劉倹、布学寬、呂学隆、王風翔、白光普、武杰、孟天錫らがいます。  

宋世栄

 宋世栄、字を約齋、鐿泉あるいは鏡家と呼ばれた。生没年は約1849年―1927年とされ、宛平県(現在の北京市)に生まれ、後に父の宋永禄とともに山西省の太谷に移り住み、時計修理店を営んでいました。幼少の頃の宋は知的で教養があり、本や囲碁を好み、特に拳芸を好んでおり様々な拳術を学びました。その後、弟である宋世徳と共に李洛能老師に拝師し入門、十年間熱心に形意拳を学び修めました。

 宋の五行拳十二形拳それぞれ妙技の域に達し、特に内功の洗髄二経を深く学びその原理を悟り、さらに陰陽五行太極八卦と三教哲学を理解しました。内功四経を通じて自身で深く探求したことで、拳技と融合させることに成功し、形意拳と内功との有機的な結合を起こし、後世に残る貴重な武術財宝となったのです。

 宋世栄は理論を完成させただけでなく、技術にも大きな創意工夫を加え「内功盤根」「十六把」「麟角刀」などの拳や器械の套路を生み出し、形意拳の内容をより充実させたと同時に宋氏形意拳の体系の基礎を築きました。伝人には宋虎臣、宋鉄麟、賈蘊高、任尔琪、王嗣昌、趙守鈺らがいます。

郭雲深

 郭雲深、字を峪生、生没年は約1820年―約1901年とされ、清代の道光帝から光緒帝の時代にかけて活躍した人物です。河北省深県馬庄で生まれ、体格は逞しく性格は剛毅、義侠心があり幼い頃より武芸に親しんでいました。同治帝の最初の年(1862年)李洛能に拝師し門下となり形意拳術を学び、熱心に研究を続ける中で真髄を心得ることででき、三層道理、三歩功夫、三種練法、三層呼吸、三層用法などの練習時の要素をまとめ、極めて緻密な論述をされました。

 郭雲深は直、魯、豫及び東三省を巡りましたが郭に敵う相手はおらず、それ故に「半歩崩拳打天下」と呼ばれました。光緒帝の時代には西陵で教え、六陵の総監にも任命されており、潭崇杰の家で武術教師を務めていました。

 また郭は正定県の府知事の銭錫買の幕賓(幕下に招聘され,機密にあずかる顧問)となり、その息子の銭観堂に武術を教えました。その後郭は、人々を脅かす賊の命を傷つけたとして三年間投獄されました。出獄後は諸国を放浪し最後は北京にたどり着きました。晩年は故郷で隠居生活を送り、70歳でこの世を去りました。郭は生涯を通じて多くの弟子を教えましたが王福元、李奎元(殿英)、銭観堂、許占鰲、劉永奇らが著名な弟子です。

張占魁

張占魁、字を兆東、生没年は約1859年―約1940年で清代の道光帝の時代から中華民国の時代にかけて活躍した人物です。河北省河間県后鴻雁村の人で、最初は少林秘踪拳を学びましたが後に劉奇蘭に拝師し形意拳を学び、また董海川から八卦掌を学びました。そして程廷華、李存義と共に義兄弟の契りを交わしたのは有名な話です。

 1911年、天津にて中華武士会創設に参加。そこで教鞭をとり熱心に教え、義侠心をもって人を助け、仇を討つ如く悪を憎み、秘術を守ることに徹することから神にも匹敵するといわれました。1918年には弟人の韓慕俠、李剣秋らを引き連れ北京中山公園の大会に参加し、ロシア人レスラーを倒したことで新聞に掲載され、一躍その名は全国に轟きました。

 老境に入った後も中国武術の普及に情熱を注ぎ、地方や市町村の小さな規模の大会から全国規模の武術大会の審査や、八卦掌の演武も行いました。張占魁の伝授した形意拳の中には八卦掌の技法が融合しており、形意拳の技法をより豊かにした斬新な体系となりました。

 弟子は多く、著名な方ですと姜容樵、王俊豆、韓慕侠、趙道新、劉錦卿、馬登雲、武銘、姚馥春、魏成海、銭松齢、没稚和、韓云亭らがいます。

耿継善

 耿継善、字を成性、生没年は約1860年―1928年、清代の咸豊帝の時代から中華民国にかけて活躍しました。河北省深県の人で幼少の頃は花拳を学び、その後劉奇蘭に拝師しその門下となり形意拳及び器械を学びました。

 1900年弟子の鄧云峰、劉彩豆と共に北京の地安門大街地区后門橋の西側にある火神廟内で四民武術研究社を設立しました。耿継善の弟子では劉彩臣、鄧云峰、趙徳祥及び子息の耿霞光らが有名です。

孫禄堂

 孫禄堂、字を福全、また人々からは涵齋と呼ばれており生没年は約1860年―1933年、清代の咸豊帝の時代から中華民国にかけて活躍しました。河北省完県東任家瞳村の人で、幼少の頃は李奎垣を師事し同時に形意拳も学び、その後李の師匠である郭雲深に師事。同行を共にし、また程廷華から八卦掌を、郝為真からは太極拳の真伝を受け継ぎました。一方では宋世栄、車毅斎、白西園からの支援もあり、孫氏の武術は完成の域に達し、後に形意拳・八卦掌・太極拳を一つにまとめた孫氏太極拳を創始しました。孫氏は拳学に関する書物「形意拳学」「八卦拳学」「八卦剣学」「太極拳学」「拳意述真」を著作しており、他にも「論拳術内外家之別」「評述形意、八卦、太極之原理」などの著書を残しました。

 清朝末期、孫禄堂は徐世昌に招かれて奉天で内巡捕を務め、その後、大統領府の中尉となり、陸軍少佐の階級を授与されました。1928年南京中国武術館館長の張子江と副館長の李景林に招かれ武当門の教主となり、その後、江蘇中国武術館の館長兼教務も務めました。

 孫禄堂の功夫は凄まじく、武術の理論に関しても精通しており、それにより北京や天津の武術界でもその名は有名になり、「虎頭少保,天下第手」と呼ばれるようになりました。孫には斎公搏、馬承智、陳微明、李玉琳、刘正邦、孫振川、鄭懐賢、朱国楨、曹晏海、李敦素と孫の息子である孫存周と娘の孫剣雲など百名に及ぶ弟子がいました。