形意拳術,  形意拳要論シリーズ

【形意拳要論】形意拳八要

形意拳八要
 八要者何?①内要提,②心要并,③意要连,④行要順,⑤梢要齐,⑥心要暇,⑦尖要対,⑧眼要毒也。
内要提:紧撮谷道提其气,使上聚于丹田,复使聚于丹田之气,由背骨而直达于脑顶,周流往返,循环无端,即所谓 “紧撮谷道内中提”也。
心要并:顶心往下,脚心往上,手心往回也。三者所以使气会手一处。盖项心不往下,则上之气不能人于丹田;脚心不往上,则下之气不能收于丹田;手心不往回,则外之气不能缩于丹田。故必三心一並,而气始可归于一也。
意要连:心意气意力意,三者连而为一,即所谓内三合也。此三者以心为谋主,气为元帅,力为将士。盖气不充,则力不足,心虽有谋,亦无所用,故气意练好,而后可以外帅力意,内应心意,而三意之连,尤当以气为先务也。
行要顺:外五行为五拳,即劈崩砲鑽横是也。内五行为五脏,即心肝脾肺肾是也。外五行之五拳,变化应用,各顺其序,则周中规,折中矩,气力之所到,而架勢即随之,架勢交所至,而气力即注之。气力充,则架势为有用,架势练而气力片愈增。故五行要順者,即所以顺气也。
梢要齐:舌要顶,齿要叩,手指脚肚要扣,毛孔要紧也。夫舌顶上嗓,则津液上注,气血流通:两齿紧叩,则气贯于骨髓;手指脚趾内扣,则气注手筋,毛孔紧,则周身之气聚而坚。齐之云者,即每一作勢时,舌之顶,齿之叩,手脚趾之扣,毛孔之紧,一齐如法,为之无先后迟速之分。盖以四者如有一缺点,即气散而力怠,便不足以言技也。
心要暇:练时心中不慌不忙之谓也。夫慌有恐惧之意,忙则有急遽之意,一恐惧则气心馁,一急遽则气必乱,馁乱之时,则手足无所措矣。若平日无练习之功,则内中亏虚,遇事怯缩,临敌未有不恐惧,不急遽者;故心要暇,实与练气相表里也。
尖要对:鼻尖手尖脚尖相对也。夫手尖不对鼻尖,偏于左,则右边顾法空虚,偏于右,则左边顾法空虚。手与脚,脚与鼻不对,其弊亦同。且三者如偏斜过甚,则周身用力不均,必不能团结如一,而气因之散漫。顶心虽往下,而气不易下行;脚心虽往上,而气不易上收;手心虽往回,而气不易内缩此自然之理也。故三尖不对,实与练气有大妨碍也。
眼要毒:谓目光說敏而有威也。毒字即寓有威严疾敏之意,非元气充盈者,不能有此。盖习拳术不外乎练气练力。练力可以健身体,练气可以长精神。工夫深者,能丹田凝聚,五脏舒展,此人之精神必灵活,脑力必充足,两耳口鼻等官,必能各尽其用,而目尤必神彩奕奕,光芒射人,是即所谓毒也。
 

八要とは何か?①内要提,②心要并,③意要连,④行要順,⑤梢要齐,⑥心要暇,⑦尖要対,⑧眼要毒である。

内要提:谷道(肛門)を締めその気を引き上げ、丹田に集めるようにし、また丹田に集めた気を、背骨から直接頭頂に届くようにし、どこにも滞りなく循環・周流を繰り返す、即ちこれが“紧撮谷道内中提(谷道を締め体の内を引き上げる)”である。

心要併:頂心は下に、足心は上に、手の中心は回す。この三つの気を一か所に合わす。頂心を下にしなければ、即ち上からの気を丹田に吸収することができず、足心が上がらなければ下からの気を丹田に集めることができず、手心が回らなければ、外からの気を丹田に集めることができない。故に必ず三心を一つにまとめなければ、気を一つにまとめることができない。

意要連:心と意・気と意・力と意、これら三つが一つになって連なる、即ちこれが内三合である。この三つというのは「心」が謀主、「気」が元帥、「力」が将士のようなものである。気が不十分であれば、即ち力は不足し、心で謀略を決めていても使いこなせず、故に気と意をしっかりと練ることで、後から力と意が率いられ、内から心と意は応じることができる。この三つの意を連ねる上で、「気」というのは優先すべきものである。

行要順:外五行というのは五拳、即ち劈・崩・砲・鑽・横である。内五行というのは五臓、即ち心・肝・脾・肺・腎である。外五行の五拳は各順序で正確に変化しながら、気力が到るように架勢を随わせ、架勢の交わるところに気力を注ぐ。気力を充ちれば、則ち架勢は有用となり、架勢を練習すればするほど、気力は増える。したがって、五行に従うというのは気に従うことでもある。

梢要齐:舌は上に、歯は叩く(嚙合わせる)ことを要し、手・指・脚・肚は丸みを帯びさせ、毛穴は引き締める。舌を上に突っ張ることで、津液(唾液)が沸き、気血が流れる。上下の歯をきつく嚙合わせることで、骨髄を気が貫す。手脚の指を内に扣することで、気は手の筋に注がれ、毛孔は引き締まり、それにより気は周身して(体が)頑丈となる。斉というのは舌を上に突っ張り、歯を叩き(嚙合わせる)、手足の指を内に扣し、毛孔のを引き締めることを一つに斉する(合わせる)ことである。これらの四つのうち一つでもかければ、気はすぐさまに散ってしまい力は抜け、技を用いるにも不足である。

心要暇: 心要暇とは練習時には心中を不慌(恐れず)不忙(忙しくさせず)のことである。この慌というのは怖れることを意味し、忙とは急遽(急激に慌てる)ことを意味し、恐れれば気と心は馁となり(弱くなる)、急遽であれば気は必ず乱となり(乱れる)、馁と乱の状態になった時、則ち手足无所措(慌てふためきなすすべがなくなる)となる。普段より練習し功を積まねば、則ち内部が欠け虚となり、いざというときに臆病となり、対峙した敵に恐れてしまい、急遽しない者はいない。故に、心には暇を要し、実と練気は表里(日向と影)のようなものである。

尖要対:鼻の尖端・手の尖端・脚の尖端が相対することである。その手の尖端と鼻の尖端が対せず、左に傾けば則ち右側が空虚となり、左に傾けば則ち右が空虚となる。手と脚、脚と鼻が対しなければ、その弊害は同じである。この三者が偏りすぎれば体を均等に力が周ることは出来ず、また力を一つにまとめることも出来ず、気が散漫となる。頂心が下に往っても気は下にはいかず、脚心を上に往っても気は上には収まらず、手心を回しても気を内に縮め収めることは出来ず、これが自然の理である。故に三尖相対をしなければ、実と練気において大きな妨げとなる。

眼要毒:眼要毒というのは眼光が俊敏にして威があることである。毒の字には威厳や疾敏という意味があり、元気が満たされていなければこれはできない。拳術を練習することは練気・練力に外ならない。練力は身体を強健にさせ、練気は精神を成長させる。工夫が深ければ、丹田に気は凝集され、五臓を舒展(伸ばす・ほぐす)させ、これが人の精神を必ず霊活にさせ、脳力も必ず充足され、両耳・口・鼻などの機関が最大限機能する。そうして眼は必ず神彩(優れた風采)を奕奕(光り輝く)し、光芒(光のすじ)は人を射る。これすなわち毒なり。

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