形意名手シリーズ,  形意拳術

【形意名手】英明なる武人『曹継武』

 曹瑋、字を継武、約1662年―1722年、清の康熙帝の時代に生きた人物です。12歳の時に姫際可から心意六合拳を伝えられ、12年の歳月を経て大成しました。曹継武は康熙癸酉年(1693年)科挙の三元を取得し、康熙40年(1704年)に陝西省靖遠県の福証に任命され、康熙45年には興安の武官に任命される。晩年は引退し現在の地州に隠居し武芸を伝え、後世に『意拳十法摘要』を著し、弟子には後に山西で栄えた戴龍邦、河南で栄えた馬学礼の二人が有名です。

 曹継武の『十法摘要』の結びの章で「姫師から真伝を受けたのは鄭師一人である。鄭師の拳、槍、剣、棍などすべてを修め、姫先生の理論を理解している鄭志だけである。これは、すべての武芸が拳の中から生まれていることを知っているためである。しかし、世の心意六合拳を学ぶ人々のその術は異なっている。真伝を授かっておらず、少しの差が千里の差になり別物となっている。私は幸いなことに私は鄭師の門であり、姫老の伝人である。師姫の伝授を受けるために、鄭智の弟子から学ぶことがでた。したがって、その方法はかなり洗練されたものであり、私はそれを手に入れたのである。十法摘要の内容をあえて世に問うわけではないが、智識の伝統を守り、また後進のために役立てるつもりである。」という一節があります。これは姫際可と曹継武との間に鄭師というもう一代伝人がいたことを示しています。鄭師の資料は載っていませんが、馬琳璋の著書『心意拳真諦』参考までに次のような記述があります。

 「鄭師は姫際可が終南山中で出会った道士で、寺で座って話していると、道士が『今は太平の世ではないが、太平の世になれば南山に馬を放ち、刀槍を藏にしまうだろう。但先生がそれでも街中で大槍を持って歩くのは人目についてしまい、それが原因で厄介ごとを招かないだろうか』。姫際可は『師から授かったものをどうして置いていけようものか』と答えたところ道士は『なぜ捶(拳)にかえないのだ!』と言われ姫師は悟った。それ以来、槍の使い方を捶に変え、六合大槍の原理と架勢(構え)とを合わせ六合捶を作り出した。姫際可は終南山で拳を創って以降、道士に見せ、それを見た道士は気に入り姫際可に自分も習いたいと申し出て、姫師は道士にこの拳を教えた。そして彼は六合拳を一派とし終南派、またの名を『忠派』としたのである。この忠というのは明に忠誠を誓う『反清复明』の考えのもと、一派は拳術の創始者に敬意を表し、心意六合拳の始祖である姫際可に尊敬するとした。そして道士は謙虚に姫際可から六合拳を学び、後に鄭老師と呼ばれるようになった」とあります。

 武術の歴史は口伝や手書きの文章で伝えられることがほとんどで、多くの武術家の自尊心や保守性、本格的な検証の不足から、その本質を見極めることは困難でありました。 形意拳の歴史もこの問題に悩まされています。

 例えば、古い系図では、姫際可が戴龍邦と馬学礼に、戴龍邦が李洛能に継承されることを直系として扱うものが多いですが、実際には生没年を分析するだけでも誤りがあることがわかります。 現代の『中国武術大辞典』によると、姫際可は1602年から1680年、戴龍邦は1713年から1802年、馬学礼は1715年から1790年、李洛能は1808年から1890年の間に生まれ没したとされています。このことから、戴龍邦や馬学礼が直接姫際可から学ぶことはできず、李洛能が戴龍邦から学ぶこともできなかったことがわかります。

 なぜなら戴龍邦は彼らの誕生より何年も前に亡くなっているからです。 弟子と師匠が同時期に存在しなかったことを、これまでの武術史研究の見落とし、欠陥として片付けることはできません。ですから、初期の心意拳(形意拳)の系統は、姫龍峰―鄭師―曹継武―戴龍邦、馬学礼で、後に山西と河南に分かれたというのが妥当なところだと考えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です