形意名手シリーズ,  形意拳術

【形意名手】形意の祖『李洛能』

 李飛羽、字を洛能、また能然、老能、老農とも呼ばれていました。生没年は約1808年―1890年とされ、清朝の嘉慶帝の時代から、光緒帝の時代に生きた人物。河北深県窦王庄の人で、幼少の頃から武術を練習し、山西祁県に戴氏が心意六合拳に長けていると聞き、野菜栽培をするという名目で派遣され、約1845年に帯技投師をし、戴文雄に拝師し戴家の心意六合拳を何だが当時李は37歳で、戴家で10年間の厳しい練習を経て大成しました。拳の道において至らぬところはなく、他人とより心の欲する所を妨げられず、尋常にあらず、神妙且つ予測不可能で、すでに究極の境地に達し、見たり聞いたりせずとも知覚し、当時の人々は「神拳李洛能」と呼んでいました。1856年李洛能は心意六合拳を基礎に大胆な革新を行いました。心意六合拳の基礎を発展・拡大させ基本的な站樁法として三体式を、基本的な拳法として劈崩鑽炮横の五行拳を、十形に駘と鼉を増やした十二形を作り出しました。

 李洛能が拳を学び創出したことに関して言えば、外せないのがその師である戴家の伝人戴文雄です。昔の拳譜の中には戴龍邦が李洛能に直接技を伝えたと書かれていることがほとんどですが、李洛能は1803年に生まれなのに対し、戴龍邦は1802年にすでに亡くなっているので李洛能は戴龍邦から直接技を学べません。現代の考証と資料によると、李洛能は戴家心意六合拳の戴龍邦の甥の戴文雄から伝わったと考えるのが妥当だとされています。

 戴文雄、小字を二閭、生没年は約1778年―1873年、真の乾隆帝の時代から同治帝の時代にかけて生きた人物。戴龍邦の弟である戴麟邦の二児。戴氏の「拳を外に伝えてはならない」という家訓を初めて破り、戴家の心意六合拳を李洛能に伝え、これにより戴家の心意六合拳は形式を変化させ形意拳になったのであり、戴文雄こそが心意拳を外に伝えた重要な人物、まさに功労者であるといえましょう。

 李洛能の師伝はその大弟子の「毅斎記念碑」の碑文中にも確認されている。この碑は民国14年7月(1925年)に孫培基が文を作り、武中洲が書き常贊春が写し、車毅斎の弟子である李复貞、王風才、白光普、李発春、刘倹、布学寛ら他15人とその孫弟子50人以上、及び子の兆杰、兆烈、兆俊と孫の輝六らが記念碑を立て、碑中にこのように写しました。「拳術とは中国の絶技であり、少林・内家・外家の区別がある、吾の県では自咸年からこの術は独盛し、李洛能老師は曰く王長楽の弟子、曰く戴文雄の弟子である。戴氏は小字二閭つまり祁県の人で、戴氏の先祖は心意拳を伝えており、それは少林寺の外に伝わった一派を一家で受け継いでいたが、それを家の外の者であった李洛能先生は受け継いだ。李先生は丈孟勁先生の来賓で来ており、それにより車毅斎は拝師を受けることになった…」とあります。これは吴殿科著書の『形意拳大前』の中の記述にある「光道29年(1849年)李洛は太谷の裕福な紳士の孟勁如に招かれ、太谷城内で護院したところ、孟の推薦があり戴文雄の同意のもと車毅斎を弟子にした。李洛能が車毅斎に拳を伝えていたと同時に、車毅斎は孟にも伝えていたので孟勁如が李洛能を来賓として待遇した」という記述と歴史と一致しています。

 李洛能は帰京後、当時の太極拳の名手である楊露禅、八卦掌の名手である董海川とともに京の三大名拳の主導的な人物として数えられます。李洛能の弟子には山西の車毅斎、宋世栄、宋世徳、李广享らと河北の劉奇蘭、郭雲深、張樹徳、賀運亭、劉曉蘭、白西園、李鏡斎と子の李大和らが著名です。その後それぞれの弟子に広く伝え、多く英才を育成したことにより中国全土で形意拳は迅速に発展していき、その多くが名人となり、武術の発展において大きな足跡を残しました。ですので、勿論形意拳を創始したのは李洛能といわれていますが、実際に発展させ完成させたのは李洛能の弟子たちであり、彼らが拳の練習と研究を重ねった結果であり、このような彼らの実戦と研究の結果は私たちが「形意拳」を研究・探求する上で、無尽蔵の歴史的資料の宝庫となっています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です